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AIが奪ったのは――囲碁の美しさと人間の創造性?
囲碁は芸術か、それとも計算か? AI時代の問い
2026 年 05 月 18 日掲載

2017年、世界中がAlphaGoの熱狂に包まれていたとき、某大手IT社長が囲碁界を震撼させる一言を放ちました。 「囲碁って本来、相手がミスをするのを待つゲームだろう?なのに機械は絶対に間違えない。人間が3手先を読む間に、AIは300手先まで読む。これに何の意味があるんだ?」企業が囲碁AIを開発することに「あまり意味がない」と言い切りました。その場で某大物プロ棋士が即座に反論しました。「囲碁のことを何もわかっていない!」

しかし9年後の今…AIの勝率グラフが対局分析の「正解」となり、「AI一致率」が評価に変わってしまいました。

当時に言った、あの耳に痛い「AIが囲碁の楽しさを奪う」という指摘は、本当に現実のものになりつつあるのだろうか?

AIが登場する前の囲碁は、「曖昧な美学」に満ちた芸術

「厚い」「薄い」「大きい」「小さい」「味が良い」「味が悪い」「緩い」

囲碁には、数字では表しきれない曖昧で感覚的な評価が数多く存在します。しかしAIの登場によって、それらは少しずつ勝率や目差といった“数字”へと置き換えられるようになりました。その結果、「囲碁は以前より少し味気なくなった」「美しさが失われた」と感じる人もいます。

AIが判定すれば、それらの手は即座に「勝率40%以下」と数字で示されます。かつては「味がある」「人間味のある一手」と語られていた着手も、現在では厳しく評価されることが少なくありません。そしてプロ棋士の対局も、AIの第一候補を「なぞる作業」に近づいていると感じる人もいます。最善手から外れただけで、「問題手」と指摘される時代になりました。便利になった一方で、囲碁から“曖昧さの美学”が少しずつ失われつつあります。

現在の世界大会では、序盤50手におけるAI第一候補との一致率が、すでに70%を超えることも珍しくありません。そのため、「棋士はもはや創造者ではなく、AIの打ち方を再現する“模倣者”になりつつある」と感じる声もあります。

囲碁教室では、静かではありますが、確実に変化が起きています。

子どもたちは以前のように、「なぜこの手なのか」「どこが急所なのか」を深く考える前に、AIが示す「勝率の高い手」をそのまま覚えることが増えてきました。

読みや感覚を磨くよりも、AIの推奨手を効率よく暗記します。そんな学び方へと、少しずつ変わり始めているのかもしれません。

これが、「知っている。しかし、なぜその手なのかは分からない」という状態です。かつては、棋形を見れば、その子どもの感覚や大局観、発想力が自然と表れていました。一手一手に、その人らしさがあったのです。しかし今は、「AI一致率が何%か」という数字だけが重視される場面も増えてきました。内容よりも一致率、発想よりも正解率。便利で効率的になった一方で、囲碁本来の“考える楽しさ”が少しずつ薄れているのかもしれません。

プロ棋士の中には、ライブ配信などで本音を漏らした人もいます。「AIを相手にすると、絶望を感じる」と。自分では“会心の一手”だと思って打った。しかし解析をかけると、AIは冷たく「勝率−2%」と示され、長年かけて磨き上げてきた感覚や読みが、一瞬で数字によって否定される。この“完全な認識力の差”は、時にプロ棋士の心さえ揺さぶるほど強烈なものなのかもしれません。

だからこそ、近年では一部の棋士たちが、いわゆる「反AI的な戦い方」を模索し始めています。AIが「複雑だが勝率的には平凡」と判断する局面へ、あえて踏み込む。単純な最善手の応酬ではなく、人間同士だからこそ生まれる混沌とした戦いへ持ち込もうとしているのです。そこでは、計算し尽くされた正確さよりも、迷い、プレッシャー、直感、勝負勘――そうした“人間の力”が問われます。混沌の中で相手を上回る力。それこそが、AI時代における「人間の囲碁」が守ろうとしている最後の砦なのかもしれません。

9年が経った今、私たちは一つの残酷な現実と向き合わなければならないのかもしれません。「あれに、いったい何の意味があるのか」――。かつては単なる感想や疑問に過ぎなかったこの言葉が、今ではAI時代の囲碁そのものに突きつけられた、最も重い問いになりつつあります。人間が考える意味とは何か。創造する意味とは何か。そして、“人が囲碁を打つ意味”とは何なのか。私たちは今、その答えを改めて問われているのかもしれません。

AIの勝率グラフが新たな「囲碁の聖典」となり、かつて人々を魅了した妙手が、データベース上の冷たい数字へと置き換えられていく――。そのとき私たちが失いつつあるのは、単なる棋理ではありません。囲碁が長い歴史の中で育んできた、「人間の叡智の芸術」としての、最後の神聖さなのかもしれません。しかし、歴史はいつの時代も、決められた結末をそのまま受け入れてきたわけではありません。どれほど時代が変わっても、人はなお、迷い、考え、苦しみ、そして一手に魂を込めようとする。だからこそ、囲碁というゲームもまた、AIによって終わるのではなく、人間とともに、新しい形へ変わっていくのかもしれません。

もし囲碁までもが、ただ「正解」を求める標準化された数学の問題になってしまうのだとしたら。それは単なるゲームの変化ではありません。人間が長い時間をかけて育んできた、感性、創造性、そして“考える文化”そのものを失うことを意味します。そしてそれは、私たちの時代が生み出してしまった、最大級の文化的悲劇として語られるのかもしれません。

囲碁の魂は、人間自身の手で守らなければならない。そしてこれは、決して囲碁だけの問題ではありません。アルゴリズムがあらゆる判断を支配し始めたこの時代に、私たちは「人間であること」の尊厳や創造力を、どう守り抜いていくのか。囲碁はいま、その問いを静かに私たちへ突きつけています。「次の一手を、どう打つべきか」――。その答えを、機械だけのものにしてはいけない。迷い、考え、苦しみ、それでも一手を選び取る。その営みこそが、人間の価値のではありませんか。